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第一内科 [92M覚え書き]

皆様、ご無沙汰しております。更新をせず失礼しました。今回はSGT第一内科を。
我々が学生の頃は、第一内科はエリート集団のイメージがありました。過去形なのは、今のH大第一内科がどうなっているか、分からないからです。今も変わらないかもしれません。
第一内科は、上部消化管グループ、肝胆膵グループ、血液グループ、膠原病グループとあったように思います。当時の主任教授は、Y教授でした。学長、名誉教授までお勤めになられたH大出身なら誰でも知っている先生です。専2の時だったか、卒業アルバム写真を撮りにいくよう、先輩から言われて教授室にうかがいました。あらかじめ、目的はお伝えしてありました。医局秘書の方に来意を伝えると教授室に秘書の方がまず入り、それからどうぞ、となりました。ご挨拶をして、写真をとる段になりました。それで、どう撮るかということになり、私が「では、先生こちらにお座り頂けますか?」と言うと、「キミは僕に命令するのかね?」とおしっしゃいました。かなりびびったのですが、先生のお顔を見ると、ニヤっと笑ってます。Y先生一流の洒落だったのです。これは、私のようなペーペーがやっても意味はなく、やはりY先生のような重鎮の先生がなさることで意味があるのだと今でもしみじみ思います。
さて、第一内科(以下一内)。皆さんはどのグループを回りましたか?私は肝胆膵グループでした。当時のグループのヘッドはさるゲームの主人公にそっくりなS先生でした。一見当たりはソフトなのですが、なめたらアカン、という先生でした。当時一内を回ると担当患者さんの模擬カルテを作成させられました。私も作りました。中間で、出来を確認してもらうのですが、S先生は一目見てそれまでのニコニコ顔が一変しました。曰く「これはヒドイ」かなりショックを受けました。でも、ショックを受けてる場合ではないので、必死に直しました。画像検査のシェーマを書いたり、検査の結果を細かく書いたり。毎晩10時くらいになったように思います。途中M助教授によるレントゲン読影のクルズスもありました。グループのみんなで検討しましたが、分かりません。たまたま同期の父上が入院されていたので、病室にフィルムを持ち込み、助けて頂きました。見つかったら、ドヤされたと思いますが、大丈夫でした。他にも血液グループのT先生は、プレパラートを見ながら、一つ一つ病理所見を教えて下さいました。私は阿呆でしたので、呆れられながらも優しくご指導下さいました。我々より上の先輩方はK子さんノートの作者として名高い方ですね。上部は心凍らせての歌手によく似ておられるF先生でした。さらっと内視鏡を扱われるのですが、自分にはとても出来そうにありませんでした。
私の担当は、慢性肝炎の方でした。穏やかな方で、口数少ない方でした。あまり会話に成りませんでした。ベッドサイドに座り、話すこともなくなり、窓の外にお互い視線が向かいました。「雪ですね」「だな」という会話とも言えないやり取りをよく覚えてます。最終的には、S先生にOKを頂きました。ND氏は、最初から一内を考えておられたようで、とても一生懸命にやっておられました。卒後はやはりND氏は一内に入局されました。
私は卒後出来たばかりの内科に入りました。院内でたまたまお会いしたT先生には、「ウチに来れば良かったのに」と呆れられました。内心「そうですよねー「そうですよねー」と思いましたが、苦笑いするしかありませんでした。

VLC先生の最終講義だそうです [92M覚え書き]

みなさん、こんばんは。最近92Mネタが少なかったので、飽きられているのでないかと心配になっているらこぞうです。
先日Facebookで、VLC先生が平成27年2月21日(土)14:30〜H大文京キャンパスで最終講義をするという案内を見つけました。
VLC先生って誰?というあなた!ほら、兄妹で歌を歌っていたあの方たちと同じ名字の先生ですよ。
当時は教養部が存在していて、英語をたしか8単位とらないと教養部から専門課程に移行できなかったように思います。
クラス英語でも、英会話でもよかったように思います。クラス英語を2年間前期後期ずつとってしまえば、クリアできたように思いますが、英会話もとりたくなって、VLC先生の英会話に応募しました。このクラス、結構人気があって抽選だったのです。
VLC先生に限らず、教養部の教官の間では、医学部生の評判が芳しくなかったと聞いています。普段はサボってばかりなのに、試験となると俄然勉強して?、単位を取っていく、それが目につく。いや、つきすぎる。そういう理由だったと聞いています。本当はどうだったのだろう?
それゆえ、せっかくVLC先生の講義をとっても、なかなか単位をとるのは大変だときいていました。
なんとか、抽選では当選。無事講義を受けることができました。教養部ですから、医学部だけでなく、他の学部の学生さんとも一緒です。私は、理学部の学生さん、教育学部の学生さんと4人組になりました。VLC先生が用意してくれたシナリオを暗記して、それにそってロールプレイをするという内容でした。
結構日常生活でも使えるようなフレーズがたくさん含まれる内容でした。
なんとか、単位をいただきました。
教養部2年の後期でしたか、クラス英語も担当していいただきました。こちらは少しレベルが上がり、自分たちでシナリオを作り、それに沿ってロールプレイをしました。この中で、「黒い飲み」というフレーズを入れ込みました。黒い飲み。要は男だけの飲みだから、黒い飲み。どうでもいいっちゃー、どうでもいいのですが、せっかくだからこのフレーズを入れたいと希望しました。
最初VLC先生はこの意味が分からずに首をひねっておられましたが、事情を説明すると、苦笑いしながら、「では、Have a black partyにしましょう」と翻訳してくださいました。このクラス英語も何とか単位をいただきました。
VLC先生は、よく市内を自転車で颯爽と走っているのをお見かけしました。
映画館でお会いしたこともありました。当時弘前にもミニシアターがありました。マリオン劇場といいました。ここで、ニューシネマパラダイスを上映したことがありました。それを見終わった後、映画館を出たところでVLC先生とバッタリお会いしました。挨拶すると、VLC先生は私のLLビーンのスウェットに目をとめられ「オノさ〜ん、じゃいごくさいトレーナー、着てますねぇ」とおっしゃいました。田舎くさいでなくて、じゃいごくさい、スウェットでなくてトレーナー。上手く説明できないけど、地域に溶け込むというのはこういう姿勢をさすのだと、強い感銘を受けたのでした。
VLC先生に初めてお会いした歳の倍以上の歳になりました。この事実に気づいたときには、ショックを受けました。年取るわけだ。
いずれにしても、教えを乞うた教官が無事に退官まで母校で教鞭をとられていたことを知って感動しました。
残念ながら、私は行けませんが、もし、お近くに住んでいて予定があいている方は最終講義聴講してはいかがでしょうか?

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弘前雪灯籠まつり [92M覚え書き]

こんばんは。弘前雪灯籠まつりが開幕しましたね。みなさんは、行ったことありましたか?92Mなら、いやH大生だった方なら必ず行きましたよね。
今年は、今日からみたいですが、昔は金曜日からだったような。これって記憶の錯誤かな。
雪灯籠まつりというくらいで、雪で出来た灯篭が連なり、橙色の明かりが揺れていました。
灯籠には、ねぷた絵も描かれていたと思います。
小さな灯りが並ぶなかを歩くと、寒いけど何故か暖かい気持ちになったものです。甘酒を買って飲んだのも懐かしい思い出です。
寫眞も確か撮ったハズですが、見当たらないのです。写真部なのに恥ずかしい。
ある年、父と叔父が連れ立ってこの雪灯籠まつりに来たことがありました。暖冬で雪が少なくて困っていると報道されていた年です。
2人と一緒にお城に行ったのですが、なんと雷雨になったのでした。2月の弘前にしては、ありえないくらいの天気。
かわいそうに雪灯籠が溶けかけているものもありました。雪灯籠ではなくて、雪泥になってるなんて、シャレにもならないシャレを言って、残念な気持ちを慰めたものでした。
きっと今年は、綺麗な雪灯籠や雪像が並んでいることでしょう。盛大なお祭りになりますように。

いづう

こんばんは。酔ってるからもう一本。
京都に所用があって出かけた叔母から
お土産もらいました。いづうのさば姿寿司
脂がのって旨いです。やはり、端っこより真ん中が脂の乗りがいいんですね。はじめて気づいた。
昔祇園にあるお店に行ったことがあります。
シンプルで、それでいて素っ気なくない。
毎日白木を磨き上げている職人さんの姿が見に浮かぶような感じ。
さば姿寿司と日本酒を頼みました。
昔のお寿司屋さんは、きっとこうだったんだろうなぁとしみじみ考えながら、いただきました。
これはそのお寿司のラベル。どうも季節で絵柄が変化するようです。コンプリートはかなり先になりそうです。

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やっと来ました

こんばんは。やっと来ました。ライカM4-P。
本当は昨日到着していましたが、雨のため、
今日引き取りました。
このカメラ、実は32歳。外箱は色褪せていましたが、カメラ自体はオーバーホールもしてあり、外観も新品みたい。
ライカは、ドイツ本国製が人気で、カナダ製のこのカメラは人気ないと聞きました。そこが逆に惹かれました。値段もかなり良心的な値段で譲ってもらいました。
マツモトカメラさんに大感謝です。
さあ、これでドンドン撮って、寫眞館らしくしないと。

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ライカ遍歴

みなさん、こんばんは。このところ、再び写真に目覚めたらこぞうです。
これまでにライカをいくつか手に入れました。
しかし、今手元には一台もありません。
どんな経過でそうなったか、書いてみます。
昔仕事を始めて3年目。外に出されて、少し余裕が出来た頃。お世話になった先輩が、とても趣味の広い方でした。カメラをはじめ、釣り、音楽、クルマなどなど。
その先輩がライカM6チタンを使っておられました。他に、ライカCL、M3など。ライカ以外にも色々お持ちでした。
ある飲み会に先輩がCLを持って来たのです。
そのコンパクトさ、ファインダーをのぞかせてもらっての見やすさに一目惚れ。ライカ買います!と宣言してしまったのです。
自分で調べてみたら、もう、CLはとっくの昔に絶版。現行は、当時M6TTLというモデル。
今よりもずっと安く、並行輸入品なら、20万を切っていたと思います。
シルバーのM6TTLの新品を手に入れました。レンズは、1960年代の中古を買いました。
使い始めたら、どうもしっくりこない。
綺麗に写ることもあるけど、そうでもないことも。なんとなく拍子抜け。程なくして、レンズを残してボディは売ってしまいました。
ある時かの先輩が、綺麗なブラックのライカを
見せてくれました。黒に塗られたライカ。使ううちに、エッヂの塗装が剥がれて真鍮の地金が見えると聞きました。そのライカは、トップカバーにLeicaのロゴが。しっくりこないといって売ったのに、また欲しくなってしまったのです。そしてまたM6TTLブラックペイントを購入。しばらく使いましたが、他にカメラを購入したことから、出番がなくなり、レンズ付きで父に譲りました。
しばらくライカ熱が冷めていたのですが、
7年前にちょっと毛色の変わったライカをみました。ライカMPアンスラサイト。ライカビット付き。買ったけど、あまり活躍しないままでした。フィルムカメラが絶滅になりそうだと思い、またまた売却。
それでまたライカ熱は冷めていたのです。
どうも、ライカ熱は、活動期と潜伏期を繰り返すようで。最近またライカ熱が出てきました。
最近のライカは、値段がハンパなく高価になってしまったのです。デジカメが主流で、約100万円。とても手が出ません。
悩んだ結果、中古にすることに。ただ、露出計が入っていると、壊れた時に高くつきそう。
露出計なしで、程度のいいライカ…
メジャーなM3、M4は次第にいい個体が減っているらしい。さあ、どうするか?
余り人気のないというカナダライカ製M4-Pがあるぢゃないか!そう考えて、探し始めました。大阪の中古カメラ屋さんによさそうなM4-Pを見つけました。そろそろオーバーホール終わり、出来上がりそうです。
ここから、あらためてライカ使いになろうと思います。今度こそ長続きさせたいなぁ。

は、外れた

お疲れ様です。やっと1週間が過ぎました。これほど時間の経つのが待ち遠しく感じたのは久しぶりです。土曜日午前中の仕事が終わってすぐに銀座に向かいました。
そしてカメラのお店へ。お店の人にお願いしたら、あら不思議1、2分でリングは取れたのでした。なんだったの?この1週間は?
そのリングが取れたことで、やっとフードをつけることが出来ました。やれやれ。お疲れ様でした。

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直ったのに…

お疲れ様です。前回買ったばかりのレンズ、不調と書きました。先週末、銀座まで出かけてきました。お店に着いて、店員さんに事情を話して、見てもらいました。ものの1分で、あら不思議。あんなに動かなかったリングが取れました。やったー!で、嬉しさの余り、店員さんのリングどうします?という問いに、戻しておいてください、取れるように。と言ってしまったのです。そのまま持ち帰り、家でいそいそと取り出して、リングをとろうとしました。
すると、ピクリとも動かず。悪いことにフィルターも動かなくなってしまいました。
夜だったので、声は出せず…声を押し殺して、NO???と叫びました。
来週末また銀座行って来ますわ。トホホ。

新しいレンズ

みなさんお久しぶりです。かなり遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
突然ですが、新しいレンズを手に入れました。
しかーし、買ったばかりなのに問題発覚。
フードがつかないのです。仕方なく、メーカーに連絡したら、「お持ち頂ければ、見てみましょう」と。ありがたいけど、遠いんだよなあ。

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小児科つづき [92M覚え書き]

これは、この医局「だけ」が問題をはらんでいるのであるとその時の自分は早合点してしまったのでした。今思うと、なんて世間知らずなんでしょう。問題をはらんでいない医局なんて、この世に存在しない、というと言い過ぎですが、大なり小なりの問題をはらんで、それでもやって行くのが大人だということに私が気づくのはかなり後だったのです。恥ずかしくて、書いていて嫌になりました。
小児科は、いってみれば小児内科。臓器別に分けるのが主流だった当時、どの臓器に絞っていいのか分からない自分には、やはり小児科入っても何をしていいのか分からないままでした。しかし、その不安を抑圧したままSGTを続けていたのでした。それは、卒業試験になってかわりませんでした。しかし、ある先輩から、「お前、小児の血液の専門家になるの?」と聞かれたことがきっかけで、H大の小児科に残っていいのか、疑問が湧いてきたのです。I先生を中心に血液疾患では、華々しい業績のある小児科でしたが、それ以外では余り聞かないような。早々に自分の専攻分野を決めていいのか分からなくなったのです。
それから、悩みました。一旦決めたH大小児科への就職を辞退させてもらうことにしました。Y教授は、かなり驚いていました。必死に辞退することを繰り返す私に、最後は分かりました、と穏やかな口調で仰いました。
わたしのせいで、同期の小児科志望の先生方に大変迷惑をおかけしました。本当にすみませんでした。
その後も、やはり小児科に進むことは変えず、J医大の小児科に見学にも行きました。思考停止していたのかもしれないし、細かいことを考えることが怖かったのかもしれません。結局、J医大小児科に行くことにしました。
もう、専4の秋でした。それからは、進路のことは忘れ、ひたすら国試の勉強をしていました。
朝8時から夜8時まで。それから軽くのんで、寝る。そういうパターンを半年近く繰り返しました。
国試本番の話は、また改めて。
試験には合格できました。これからは、信じてもらえるか、わからないのですが、書いてみます。合格後は、毎日飲んだくれていました。
自分は、J医大小児科勤務開始を勝手に5月下旬と思っていました。それが、ひょんなことから実は違うことが分かり、頭が真っ白になりました。バタバタした挙句、一旦は行くことに決めたのですが、J医大に行く途中のことでした。
時期的に、新生活、別れ時期。盛岡に向かうヨーデルに乗り込みました。隣には就職に向かうとおぼしき女子。
大鰐弘前インターを過ぎたあたりでしょうか。シクシク泣き出したのです。そのまま、泣きっぱなし。次第にこちらも心細くなりました。
盛岡着いて、新幹線には何とか乗りました。しかし、その頃にはもう、「これで、いいのだろうか?」という恐ろしい考えが頭から離れなくなってしまいました。
新花巻で停車した新幹線。思わず下車してしまいました。後から思えば、普通のやまびこではなく、スーパーやまびこ(当時)に乗っていたら、全く違う人生を歩んでいたのでしょう。結局、その日の夜には、弘前に戻ってしまいました。
いまだに写真部の面々に「盛岡大返し」と嘲笑されるこの事件。結局小児科には進まず、今や精神科医になっております。この一件では、関係者の皆様に大変ご迷惑おかけしました。
小児科、きっと死ぬまで後ろめたさを引きずるだろうなと覚悟しています。

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